藤本真由オフィシャルブログ

 9月の「Dramatic Musical Collection2016」にゲスト出演した壮一帆が、「ひとかけらの勇気」をきりり熱唱していて、…やっぱり「スカーレット・ピンパーネル」の楽曲はいいなあ…と改めて感じたものだった。その翌月、待望の男女混合版日本初演公演が始まった。
 宝塚版は演出家小池修一郎により潤色がなされており、「ベルサイユのばら」に親しんだ宝塚の観客のため、主人公パーシー・ブレイクニーがフランス王妃マリー・アントワネットの遺児ルイ・シャルルを奪還するというオリジナル・ストーリーになっている。このたび上演されたバージョンはブロードウェイ版に手を加えたもので、宝塚版のように大人数の出演者でもなければ大がかりな舞台装置が出てくるわけでもないが、ガブリエル・バリーの演出は全体を実にすっきりまとめている。宝塚版で加えられ、今や愛され歌い継がれるナンバーとなった「ひとかけらの勇気」は、「悲惨な世界のために」なるタイトルで、異なる歌詞、異なる状況で登場する。翻訳・訳詞・潤色を手がけた木内宏昌の修辞が格調高い。
 このミュージカルにおいて、日本人男性として初めてパーシー・ブレイクニーを演じることとなった石丸幹二が素晴らしかった。“スカーレット・ピンパーネル”を名乗り、革命後の恐怖政治の嵐吹き荒れるフランスから貴族を秘かに救い出しているパーシーは、仲間以外の前ではおちゃらけ者を演じている。元は女優であるフランス人妻マルグリットが自分を裏切っているのではないかと内心では苦悩しながら。舞台上の登場人物たちの前では多面性を演じに演じるパーシー・ブレイクニーのすべてを知っているのは、物語のすべてを目撃することのできる観客だけであり、このとき、パーシーと観客との間にはある種の共犯関係が生まれている。そんなパーシー・ブレイクニーを演じて、石丸が実にいきいきと楽しそうなのである。パーシーの真実の姿はいったいどこにあるのか、その疑問がそのまま、舞台人石丸幹二の真実の姿はいったいどこにあるのかなる疑問と重なってしまうほどに。
 マルグリットは昔の恋人であるフランス政府全権大使ショーヴランに脅されており、それによって、プリンス・オブ・ウェールズの舞踏会でスカーレット・ピンパーネルに危機が迫る。彼女はスカーレット・ピンパーネルにひそかに危機を知らせようとする。そこに現れたスカーレット・ピンパーネルつまりは他ならぬマルグリットの夫であるパーシー・ブレイクニーは、スカーレット・ピンパーネルと名乗り、彼女に姿を見せることなく、その背中越しに言葉を交わす。妻さえも気づかぬ、知らぬ、夫の声。この場面の石丸パーシーのささやきが実にエロティックだった。――貴公子が似合う、非常に整った容姿の持ち主である。だが、私は不思議と彼を、異性として意識したことがこれまでなかった。その一方で、例えば「エリザベート」でトートを演じた際は、私がトートなる存在――黄泉の世界へと誘う存在――に求める両性具有性よりも男性性が多く発露されているように感じていた。それが。自分の声の力だけで妻の真の心に迫ろうとする、ひいては、彼女を愛する自分の心をも救おうとする石丸パーシーは、月に照らされ神々しいまでにきらきらと輝いていた。その姿に思ったのである。「My hero!」と――。彼女がいまだ自分を愛していることを知って歌う「あなたはそこに」――宝塚版で言えば「目の前の君」――が“舞台は最高のエクスタシー”だったのもむべなるかな。
 洒落者パーシーの数々の華麗な衣装も整った美貌で見事に着こなし、何より、ブリティッシュ・ジェントルマンとしての立ち居振る舞いが実にしっくり来る。ジェントルマンとしての根本がしっかりとある上でのおちゃらけ者のコミカル演技も軽妙至極。そして言うまでもなく、歌唱が素晴らしい。ワイルドホーンのナンバーの微細な音の高低も、耳に心地よく歌いこなす。「ひとかけらの勇気」転じて「悲惨な世界のために」でにじませる闘いの決意も心にぐっと響く。生涯の当たり役の一つだと思う。
 妻マルグリット役を演じたのは、日本初演の宝塚星組版で主人公パーシー・ブレイクニーを務めた安蘭けい。弟を救うため自らパリに潜入したり、宝塚版よりかなり威勢のいい女性になっている。終幕、剣をとって敵方とかっこよく戦うところはもう、宝塚版でパーシーを演じた彼女の姿を観たことのある観客にとっては大サービス場面。
 そんな安蘭マルグリットが歌う「あなたを忘れよう」――宝塚版で言えば「忘れましょう」――を聴いていたら、――日本初演の際の思い、月組による再演の際の思い、それはさまざまな思いが胸に去来して、涙が止まらなかった…。私は宝塚版も、そして今回のバージョンも、どちらも大好きである。今回のバージョンを観て、小池修一郎による宝塚版が実によくできていたことに改めて感じ入ったし、今回のバージョンも、宝塚版に親しんだ観客が、その親しみの思いにまったく齟齬をきたすことなく楽しめる潤色、物語となっている。「スカーレット・ピンパーネル」という作品が大好きだから、二つのバージョンがあって、そのどちらもこんなにも楽しめて、二倍以上に幸せだなと思ってしまう。その二つのバージョンをつなぐのは、両方に出演し、作品を舞台に乗せる上で力を尽くした安蘭けいの存在である――。ちょうどその後、「エリザベート スペシャル・ガラ・コンサート」の公演プログラムのための取材で安蘭さんにお会いし、そんな感想を伝えることができたのも、幸せな経験だった。
 このバージョンではジャコバン党のリーダー、ロベスピエールと、プリンス・オブ・ウェールズとは同じ役者によって演じられることとなっている。私が観劇した日に二役を務めたのは佐藤隆紀。パーシーとおちゃらけ者の部分で共鳴し合うプリンス・オブ・ウェールズを演じては、とぼけたコメディ・センスが発揮される。二幕の冒頭では、新たなナンバー「新たな時代は今」をロベスピエールとして歌い、舞台上でプリンス・オブ・ウェールズへと姿を変えるシーンがある。豊かな声量での歌唱の果て、さっと異なった姿を現した際、――何だかぞくっとしてしまった。
 この日、劇場には、作曲家フランク・ワイルドホーン氏と、彼の奥方、元宝塚宙組トップスター和央ようかさんの姿があった。宝塚版で名曲「ひとかけらの勇気」を誕生させ、そして今回のバージョンでも新たなナンバーを書き加えた作曲家と、彼のインスピレーションである奥方にも、素敵な作品、その二つのバージョンを生み出してくれたことに、心から感謝。

(10月20日13時半の部、赤坂ACTシアター)
 帝国劇場で上演されたミュージカル「エリザベート」、そのカーテンコールで最後に登場する、白いドレス姿、神々しい美しさに光り輝く花總まりを観ていて、思った。…この人にすら、娘役の呪縛はあったのだ…と。でも、それだからこそ、長い間、こんなにまでも、花總まりが娘役としてではなく、女優としてエリザベートを演じる姿を観たかったのだ…とも。演出の小池修一郎氏には直接伝える機会があったけれども、彼女がまたこの役を演じることを可能にしたすべての人々に、深い感謝を捧げたい。
 花總まりが初めてエリザベートを演じたのは1996年宝塚雪組公演、日本初演の舞台である。そのときはまだまだ無名の作品だった。今のように、世界中で上演され、必ずやヒットが約束されている人気作品ではなかった。この20年ほどの間に、作品の評価は著しく変わった。そのことは、作品に接する人々の意識も著しく変わったことを意味する。初演に携わった人々は、人気作品に出演するということではなく、この作品を何とかして日本の舞台に乗せる、そんな一途な思いで作り上げていったのだと思う。花總まりはその思いを共有する一人である。
 そして、日本版のエリザベートはまずは彼女に宛書された役なのである。「嫌よ おとなしいお妃なんて/なれない 可愛い人形なんて」(「私だけに」)の歌詞は、いかにも可愛い人形のような人が歌ったとき、その凄みをいや増す。この可愛い人形のような人の中にある、自らの生を全うしたいという強い意志。今回の「エリザベート」の舞台を観ていても、このドレス姿も、あのドレス姿も、どれもこれもフィギュアにして家に飾っておきたい! と思った。それくらい、どの衣装を着ても美に満ち満ちているのだけれども、それでもやはり、私が一番愛するのは、舞台で実際に生きて動いている、人間・花總まりなのである。
 多くの日本人が持つ高貴な人物のイメージを具現化したような人である。日本においては皇室の伝統がある。日本の皇室は世界の王室に比べてもひときわ高貴と神秘のベールに包まれている。日本においてロイヤルな人々を舞台に乗せるとは、そのイメージに一定以上合致することが重要なのだと思う。花總まりのエリザベートを観ていると、高貴な人々の人生に思いを馳せずにはいられない。その人々も我々と同じ人間であり、さまざまな思いを抱え、それでも微笑んで在る。
 花總エリザベートと、田代万里生扮するフランツが結婚を誓い、幸せそうに手を取り合ったとき、――チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式に夢を見、その後の二人の破局にどこか裏切られたような思いがした人々の気持ちが初めてわかった。絵に描いたような美男美女。おとぎ話で「Happily ever after.」と記されるにふさわしいような。それなのに二人はすれ違う。田代フランツには、…この人は、エリザベートが死した後、一体どのようにして生きていったのだろう、本当の意味で生きていたのだろうか…と思わせる痛切な哀しみがあった。ダブルキャストの佐藤隆紀は、オープニングで一人突き抜けるような声量にまずはインパクトを感じ、年齢を重ねるごとに、…「とても素晴らしかった、わたしはとても嬉しく思う」という、実際のフランツ・ヨーゼフの、謁見や行幸の際のお決まりの言葉を思い出した。そして、何とはなしに昭和天皇が思い出されたのである。国家の象徴としての存在。
 エリザベートを黄泉の国に誘うトートは、城田優と井上芳雄の二人。個人的には、城田は、1998年宝塚宙組版の姿月あさと以来の“私のトート”である。大理石の彫像が生きて動き出したような、中性的な美しさ。死にいざなう甘美な夢想。歌唱もシャウトが心地よい。ただ。役作りの深みにおいては花總エリザベートに対峙しきれていまい。リベンジを期待する。井上芳雄は、2000年の東宝初演版のルドルフで綺羅星の如くデビューした人である。秋にはミュージカル「パッション」に主演、日本初演のこの作品で、スティーブン・ソンドハイムの難曲をまるで難しくないかのように歌いこなし、醜いヒロインに惚れ込まれ、最終的には愛をもって応える難役をきっちり演じて作品を成立させた。まさにミュージカル界を背負って立つ存在である。その舞台にも思ったのだが、彼には、人が“プリンス”と聞いてイメージする、揺るぎなくまっすぐな魅力があるのである。それは年齢を重ねても変わるものではない。そんなイメージから、何となく、フランツ・ヨーゼフ役者のように思っていたのだが、どうしてどうして、花總エリザベートに寄り添い、ときに突き離し、翻弄し、愛し続ける、見事なトートを造形した。宝塚の男役にも学んだと思しきマントさばきや手の動きも美しい。「最後のダンス」で花總エリザベートを追いつめる井上トートの迫力は凄まじく、…、ふと見ると、自分が花總エリザベートと完璧にシンクロした荒い呼吸をしていて、驚いた。今回観劇しての二大ベスト・シーンは、花總エリザベートが昇天の際、城田トートにキュートにキスしにいった箇所。そして、「私が踊る時」で、井上トートが手を差し出したのを、花總エリザベートが少々サディスティックにすら見える女王の微笑みを浮かべ、蠱惑的にチャーミングに、手でつん、と突っぱねた箇所である。
 ルキーニは山崎育三郎と尾上松也の二人。山崎は、1996年星組版の紫吹淳ばりの色気ムンムンのセクシーなイタリア男。客席に降りての客いじりもちゃめっ気たっぷり、こういったクセのある役どころがハマる感がある。来年の公演では登板のない尾上松也に詳しくふれておくと、歌舞伎のバックグラウンドが生きた造形だった。よく通る声。異質な存在感。エリザベートやフランツ・ヨーゼフら“セレブな有名人”を語るルキーニの意識は、生まれたときから人生の時々刻々を世間に報じられ、知られている(とされる)歌舞伎の人ならでは。…何でもかんでも、全部知ってると思ってるんだろう、でもな…という「キッチュ」の挑発。その裏にある、やはり人間としての痛み。今後の歌舞伎作品での活躍に期待したい。
 浅利慶太プロデュース「ミュージカル李香蘭」を、9月と12月の二回、観ることができた(9月2日14時&12月3日14時初日、自由劇場)。以前、劇団四季で上演されたときにも観たことがあったが、今回ひときわ心に沁みるものがあった。戦争は決してあってはならないという思いが強く伝わってくる。そして、祭り上げられた後引きずり落とされ、弾劾される者の痛み、苦しみも。そうなる前に一言、誰かが何か言うことはできなかったのか。対等な人間同士の立場で。
 今年、あるところで「夜来香」を聞く機会があって、無論、歌は歌い手それぞれの解釈によるものではあるけれども、それが自分の記憶の中にあるその歌と何だか違うなと思っていた。そんなときに、タイトルロールを演じる野村玲子さんの取材をさせていただく機会があり、李香蘭すなわち山口淑子さんその人から、「自分の歌には中国の胡弓という楽器の音色のようにポルタメントがかかるところがあるから、そういう風にとらえて歌うといい」と指導を受けたことをうかがった(http://etheatrix01.eplus2.jp/article/423622061.html)。その上で実際の舞台を観ると、ポルタメントゆえにあの夢見てたゆたうような風情が醸し出されるのだと知った。以前観たとき、野村李香蘭からはお人形のようにかわいらしい印象を受けたのだが、今回の舞台では、そのかわいらしさの中にある人間味、女優魂を感じた。
 日本人にしか作れなかったミュージカルであると思う。そして、日本人にとってミュージカルとはいかなるものであるべきなのか、我々はその歴史の中に生きている。歴史を今まさに紡いでいる。例えば、宝塚歌劇においても、座付き作家が書き下ろすオリジナルの芝居とショーがメイン、根幹にあって、ときどき海外ミュージカルが上演される、そのバランスが重要だと考えるものだが、いつそのバランスが海外ミュージカル重視に傾かないとも限らない。
 …ずっとその人を、どちらかというとプロデューサーのように思っていた。今、私は、一人の真摯なクリエーターと向き合っている。
 三月上旬のある日、映画「マジック・イン・ムーンライト」の試写を観た。…うーん、作り手はここに来て死を恐れるようになったのかな…と思った。思いっきりネタバレするので気になる方はここから先は読まないでいただければと思うのだが、ようはインチキ霊媒をめぐる物語である。ただ。死者と何らかの形でつながっていたいと思う人は少なからず存在するわけで、無論そこにつけこんでのインチキや金儲けは許されるべきではないにせよ、何らかの形でつながっていたいというその想いまでは、人それぞれであるのだから否定すべきではないと思うのだけれども…。親しい友人が亡くなる前、必ず自身の前に姿を現したという故淀川長治氏だったら、この映画をどのように評しただろうと思った。
 ちょうど、3月11日の東日本大震災から四年目となる日の直前だった。そしてその夜、今まで読んだことのないネットの記事に目が留まった。被災地において幽霊の目撃談が多発しており、NHKスペシャルの番組まで作られたのだという。津波に襲われ更地となった場所からかかる電話。ちょうど津波の高さあたりで何か押されるような感覚。“知らせ”があった後に遺体が発見されたこともあったという。信じる信じないはこれまた人それぞれである。ただ、そのすべてを、非科学的であるとして否定してよいものなのかどうか。
 ミュージカル「タイタニック」を観たのは、それから十日ほど後のことだった(3月19日13時、シアターコクーン)。以前の上演でもキャストの力演がみられた作品である。今回はトム・サザーランドが演出を担当、大きな舞台装置を出さずして巨大客船を確かにそこに描き出す手腕が光った。そして、前回の上演で孤独でナイーブな通信士を好演した鈴木綜馬が、造船会社のオーナー、イスメイを演じて凄まじい演技を見せた。――傲岸不遜である。自分がこの世に作り出したこの船に不可能はないと信じている。だから、無理してでもスピードを上げさせる。神を信じる信じないもまた人それぞれだが、いわゆる“神をも恐れぬ”態度である。その姿勢は終始揺るぐことがない。救命ボートに乗り込んで悪びれることがない。
 人は神ではない。完璧ではない。多くの不可能を抱えた存在である。この世で自分にできないことはないと信じる、その態度は決して許されるべきではない。それでも人間はときに、“神”に挑戦するかのような愚かな間違いを犯す。鈴木のイスメイは、人間存在全体の抱えるそんな業を体現しきっていた。よくぞそこまで演じ切れるものだと、その精神力の強さに驚嘆した――。
 舞台終盤、どこからか、…ごおお…という轟音が聞こえ、暗い暗い夜の闇の中、海をひた走ってゆく巨大な塊が見えた。多くの人々が乗っていた。人々にはわからなかった。何故、自分があの冷たく暗い海の中で命を落とさねばならなかったか。その人々の魂は、今もあの海を彷徨っている。そうか、この舞台はその鎮魂のため上演されているのだ…と思ったら、舞台の上から、あの事故で命を落としたすべての人々の名前の書かれた幕が下りてきたのだった。
 8月13日13時半の部、東京国際フォーラムC。
 ヒロインとひょんなことから同居を始める売れない役者、エリオット・ガーフィールド役の岡田浩暉が実にいい。これまで観てきた中でベスト・アクトであり、彼の当たり役となるだろう。作品のヴィジュアル撮影の際に取材させていただいたとき、役者としての自分をこの役に重ね合わせている様が印象的だったのだが(http://etheatrix01.eplus2.jp/article/416974451.html)、その印象を超える快演である。映画版ではリチャード・ドレイファスがキュートで巧みな演技を見せてアカデミー賞とゴールデングローブ賞の主演男優賞に輝いているが、決してそこに引きずられず、岡田自身の持ち味と内面で勝負した。作品及び役柄に向き合うその真摯な姿勢が、エリオットの役者としての真摯な姿勢に自然と重なる。エリオットはこれがオフ・オフ・ブロードウェイ・デビュー、なのになのに、ハンガリー人演出家の新解釈により、“王になりたかった女王”として「リチャード三世」タイトルロールを演じねばならず、苦悩する。自然食と瞑想にはまる変人ぶりを見せる一方で、初日の夜には厳しい劇評の数々に打ちのめされ、呑んだくれる。恋に落ちて見せる一面はロマンティックなムードいっぱい。さまざまな表情がとてもチャーミングである。歌唱力も大いに活き、ベスト・ナンバーは「I Can Play This Part」。自分はこれまでさまざまな役柄に命を賭けて取り組んできたから、君の新しい父親という役柄も心をこめて演じてみせる、演じさせてほしい…! と、ヒロインの子供ルーシーに歌いかける。人生を生きることと、役柄を演じること、その二つがどうにもオーバーラップしてしまう舞台人へのビタースウィートな讃歌ともいえるこの楽曲の熱唱が、心を打つ。ヒロイン・ポーラを演じる紫吹淳から最良のパフォーマンスを引き出そうとするジェントルマンぶりにも好感がもてる。劇場の魔力を信じていて、なおかつ語りたいことも存分にあるとお見受けした。これからの舞台が非常に楽しみである。
 私はテレビのバラエティ番組というものをあまり見ないので、紫吹淳の目指す道が全くわからないで書いているのだが、舞台女優としてやっていく気持ちがあるならば、自分の中から新たな個性と魅力を引き出すためにも、歌も踊りも芝居もさらなる研鑽が必要だと思う。この日、子役のルーシーを演じたのは、「アニー」主演経験もある吉井乃歌。歌も踊りも芝居も達者で、岡田共々紫吹を大いに助ける。ポーラとルーシーとエリオットの住むアパートの管理人、ミセス・クロスビーを演じる中尾ミエは、サバサバ、カラッとしたキャラクターがアメリカン・ミュージカル向き。ポーラとエリオットの恋模様に対する彼女のピリッとしたツッコミが、観客の視線と重なり、舞台と客席とをつなぐ。「2 Good 2 Be Bad」のナンバーではノリノリなところを聴かせてくれる。
 26日13時半の部、日生劇場。
 究極的に、劇場とは、舞台を愛する者のための場所である。舞台を創る側。それを見守る側。たとえどんな困難や妨害があろうとも、いったん幕が開いてしまえば、そこは、舞台の力を信じる者同士が心通わす場所でしかない。
 ヒロイン・クリスティーヌに扮する濱田めぐみは、作品の表題曲を、舞台への愛、不屈の愛をもって歌い上げる。彼女の中で決して死ぬことがなかった愛。毅然として、それでいて慈愛のまろみに満ちて、美しい。
 ニューヨーク郊外コニーアイランドでそのクリスティーヌを迎えることとなるジリー母娘に扮する鳳蘭と彩吹真央もまた、こよなき愛をもって舞台に立ち続ける二人である。劇中、母娘の舞台への思いは報われないかに描かれる。けれども、演じる二人はその愛が報われることを知っている。
 その愛こそがすべてだと思う。そして、その愛の力ゆえに、劇場は魔法の空間となり得るのである。
 ロック・ミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」のクライマックス、主人公ドリューは、夢破れてロサンゼルスを発とうとするヒロイン・シェリーを追いかけようとする。スティーヴ・ペリーのラヴソング「Oh Sherrie」の美しいイントロが流れて、はっと胸を衝かれる。場面が変わり、シェリーを追って舞台に走り出たドリュー役の西川貴教が、「Oh Sherrie」の最初のくだりをアカペラで絶唱したとき、――ドリューがシェリーを愛する気持ちと、このラヴソング自体の“主人公”が恋人シェリーを愛する気持ちと、西川貴教がこのラヴソングを愛する気持ち、若き日に出会い、人生を賭けて志してきたもの、すなわち音楽を愛する気持ちとが見事に重なって、それはあざやかな放物線を高々と描いて、放たれた矢の如く、心に飛び込んできた。突き刺さった先には、西川と同じように、この時代、エイティーズの音楽を愛する気持ちがあるのだった――。
 1972年に生まれ、エイティーズを聞いて育った。この時代が大好きだからこそ、その扱われ方はやはり気になる。例えば私は、映画「ウェディング・シンガー」には「80年代を馬鹿にするな〜」と腹を立てたものだが、ブロードウェイで観たそのミュージカル版には「そうそう、この馬鹿馬鹿しさが80年代」とうなずいた。流行なんて去ってみればおかしなものである。振り返ってみて、「どうしてあんなものがそんなにイケていると思っていたんだろう」と思う。例えば、80年代のファッションで言うなら、甲冑? とでも聞きたくなるような巨大な肩パッドとか。
 エイティーズの音楽が何とはなしに低く見られているのは、例えば反骨精神といった高邁な思想がないとか、商業主義に走っているとか、そんなことを必要以上に取り沙汰されてのことだと思う。それはそのまま、この時代に子供〜若年時代を過ごした世代への批判にもつながる。80年代後半から始まったバブル経済は、90年代初頭にはじけ去る。その後長らく続くのは、夢の見られない時代である。能天気な音楽を聞いて、能天気に育った世代。そんな能天気な時代が許されていたなんて――。
 夢を見られる時代を生きることの、何がおかしいのだろう。夢を見られる時代、キラキラとした音楽を聞いて育った世代の責務として、もう一度、夢を見られる時代を創り上げていくということがあるのだろうと思う。私たち世代は知っている。夢を見られることの幸せ、その美しさを。だから、再び創り上げられるかもしれない。より美しい形で。野放図に富を浪費することなく、確かに何かを積み重ねてゆく形で。
 ミュージシャンとして活動するかたわら、ミュージカルの舞台にも立ってきた西川がこの「ロック・オブ・エイジズ」で提示するのは、正しいロック・ミュージカルのありかた、歌われ方である。ロック・ミュージカルというと、「ここでこういう風にずり上げて、こういう風にシャウトすると、ロック風に聞こえるよな」という歌い方が多く聞かれる。ロックはあのように歌われなければならない必然があるからロックなのであって、ロック風に歌っても別にロックにはならないのである。この作品においても、鈴木綜馬や川平慈英ら、楽曲をしっかりと理解して歌うことのできる役者は、その歌唱のうちにきちんとロックを体現している。そして、ミュージシャンとしての立場からのアプローチで新たな地平を拓こうとする西川の尽力が、日本のミュージカルに多様性をもたらす。
 「ロック・オブ・エイジズ」に出てくるのは大好きな曲ばかりだ。ほとんどの曲を、小声で思わず一緒に歌ってしまえるほど。個人的には、スターシップの「We Build This City」に合わせ、スーツに眼鏡という真面目くさった姿でノリノリにファンキーな踊りを繰り広げる鈴木綜馬がツボだった。次々と流れる懐かしいナンバーに心を委ねながら、思い出した。これらの曲をリアルタイムで聞いているころ、パンツルックも颯爽と、男に負けじとギターをかき鳴らしてシャウトする、ロックな姐御に憧れていたことを。
 そして観劇後、改めていい歌だな…と思って、何だかずっと口ずさんでいる曲がある。日本でもリーバイスのCMで使われていた、ダム・ヤンキース(というグループ名は、宿敵ヤンキースを倒すために主人公が悪魔と契約するミュージカル「くたばれ! ヤンキース」から来ているのだと思うけれども)の「High Enough」。

「高みへと連れていってくれるかい
 昨日を乗り越えられるくらい
 あの高みへ
 永遠に終わりなんて来ない
 過去なんてただの記憶」

(10月29日17時の部、東京国際フォーラムホールCにて観劇)
 昨年夏に日本初演されて好評を博したブロードウェイ・ミュージカル「COCO」が、ル テアトル銀座にて約一年半ぶりに再演されている(19日まで)。タイトルロール、ココ・シャネルに扮した鳳蘭が、素晴らしかった初演をさらに超えるパフォーマンスを披露して、圧巻である。
 2009年は舞台&映画とシャネルの人生を扱った作品が何かと多く、バッグや化粧品を買うより先に評伝からシャネルの世界に心ひかれた私としてはどの作品も非常に興味深かったけれども、三本公開された映画のどれより、私が思うココ・シャネル像に近かったのが鳳蘭だった。あまりに心打たれ、そのまま中央通りを西にシャネル銀座店へと驀進、チョーカーを衝動買いしてしまったほどである。
 それほど初演がよかっただけに、再演には危惧がないでもなかった。好評を博した作品の再演は難しいところがある。初演を観ている観客に対しては、初演を上回る舞台を提示しなくてはさらなる感動は生むことなどできないわけだが、役者の側に、「あのとき客席に愛されたから…」という驕りが生まれると、もうだめである。単に前の演技をなぞる怠慢が目についたり、受けたところに妙に力を入れた、狙いすぎる演技が鼻についたりすると、感動させるどころか、下手をすると、「…あれ、初演がよかったと思ったのって、何かの間違いだったかな…」と思わせかねない。しかしながら、再演の舞台に立つ鳳蘭にはそんな驕りや怠慢は一切なかった。彼女が魂のレベルでこの作品およびココ・シャネルという人物に共感を寄せていることが深く伝わってくる演技だった。
 私はあるとき、彼女がかくも長き間、演劇界で活躍し続けてきた理由を考えたことがある。そして思い至ったのは、「ああ、舞台が本当に好きだからなんだな…」という、きわめてシンプルな答えだった。それは何も、舞台に立って、人より注目や脚光を浴びたいとか、そんな単純な理由からではない。鳳蘭は、舞台に立って何かを表現することで、客席と心を交わせる、そのことを何よりも愛しているのである。顔の造作からして派手だから、勝手に誤解されている部分もあるのかもしれないけれども、彼女の舞台には「私って素敵でしょ」というスター意識、“自意識芸”は見られない。そして、観客のことを実によく見ている。昨年11月の「レザネ・フォール」で、彼女が歌いながら客席降りし、二、三人の観客と絡むシーンがあったが、それぞれにかける言葉がそれぞれに気が効いていて、かつ心がこもっていて、舌を巻いた覚えがある。
 そんな彼女も、“鳳蘭”を演じることにばかり考えが行っていた時期がなくはなかった。そして、ここまで来たらそれで通すというのも、それはそれでまあ、ありかもしれない…と正直、思わないでもなかった。転機となったのは無論、昨年五月に上演された「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」である。演出家・蜷川幸雄と劇作家・清水邦夫の日本演劇史に残るケンカと和解が描かれたこの美しい作品で、鳳は、今はこの世から消えてしまった少女歌劇団の伝説の元トップスターという、かつて宝塚のトップスターとして活躍した自身をどこかなぞるような役柄を演じた。清水邦夫が、生涯の相棒、蜷川幸雄を大いに仮託したこの役柄に扮して、閉店過ぎの百貨店の大階段に一人立つ鳳は、後ろ姿からして寸分の隙なく“伝説のトップスター”だった。
 あの作品を経て、鳳蘭は確かに変わった。それは、蜷川幸雄作品に出演した役者たちに課せられた闘いに、彼女が勝利を収めたことを意味していた。私にとって、蜷川幸雄作品とは、出演したその役者がさらに上を目指し続ける、つまりは、一生を闘う覚悟を決めた表現者たりえるのかどうかを問うリトマス紙のようなところがある。「最終責任は俺が持つのだから、新たな一面を拓いて、共に飛躍しよう」、蜷川作品はそう、役者に厳しく、そして深い愛をもって問うところがある。鳳蘭は、蜷川幸雄の期待に応えて、メタモルフォーゼを遂げたのである。
 それから二カ月経って上演された初演の「COCO」での演技がよいのは半ば想像されたことだったのだけれども、その後、約一年半が流れ、再びこの作品、役柄と向き合った鳳が、舞台人として生きてきた自身の魂をさらに傾けるパフォーマンスを見せていることに、私は、初演を上回るレベルで心を打たれたのである。鳳蘭とは、こんな舞台人、こんな女性だったのか――。そう、新鮮な驚きに心が震える瞬間が、何度もあった。
 不世出の女性デザイナーを演じて、鳳の魂は語る。宝塚という夢の花園での幸せだった日々。そこを巣立ってからの苦闘、ときに屈辱。今日、この舞台に至るまでの道のり。現在とはかなり趣の違う男役の衣装を身につけ、大劇場の舞台を所狭しと闊歩し、大階段の真ん中に立つ、トップスター時代のヴィジョン…。今でも、あの幸せだった場所に帰りたい、そう、魂は言う。私にはわかる。宝塚歌劇とは、舞台も、客席も、一つの純粋な想いで結ばれる、そんな奇跡のような瞬間が何度も何度も訪れる、それは夢のような、けれども、退団した者にとっては二度と戻ることのできない場所だから…。
 でも、私は今、ここにいる。あの愛おしい場所の記憶を心に大切に抱いて、舞台に立ち続けている。そんな私、鳳蘭って、どうかしら――? 終幕、シャネルとして、自身の人生を振り返る熱唱を聴かせた彼女が、そう、どこかはにかんでポーズを取った刹那、私は思い至ったのだった。“宝塚のトップスター”という称号の背負い方の覚悟、その凄みが、この人は違う。だからこそ、この人にはココ・シャネルという役柄がこんなにも似つかわしいのだと――。
 宝塚退団後、芸術性の高い作品においても、宝塚のトップスター時代にひけをとらないような活躍を見せている女優はといえば、鳳蘭と麻実れいが双璧を成す。もちろん、それだけの個性と実力に恵まれていたことも否めないけれども、それより何より、鳳蘭は、宝塚という、愛おしくも夢のような場所に匹敵する、女優としての自分の居場所を、夢の花園の出身者たる高い誇りをもって、愚直なまでに探し続けてきた人であるのだと思う。
 昨年、「カーテンズ」に関して取材させていただいたとき、その作品が宝塚退団後、初の舞台となる大和悠河さんとの共演ということで、彼女が、「“女”を演じなくていいから」とアドバイスしていたことを思い出す。そして、かつては自分も、着物の胸元から自然と色香があふれ出すような、太地喜和子のような女優になりたいと思っていた…と言う彼女が、人生の大先輩ながら、何だかとてもかわいらしくて、「太地喜和子ですか」と思わず笑ってしまったら、「そう、太地喜和子」と彼女も笑っていた。鳳蘭という唯一無二の個性と魅力の持ち主が、他の人に憧れたりすることもあるんだな…と思って、それもよりによってというか当然と言うべきか、全然違う個性の持ち主に憧れたりするんだな…と思って、内心、驚かないでもなかった。太地喜和子に憧れるという時点で、男役から転身した彼女が、女優としての自分を相当迷いながら模索していたことに。
 でも、「“女”を演じなくていい」。それが、鳳蘭がここに来て至った境地で、それは、女優となる/なった宝塚の後輩全員への心温まるアドバイスであると同時に、今を生きる女性たちへのアドバイスでもある。そしてそれは、デザイナー、ココ・シャネルも同意したであろう金言である。私がココ・シャネルという存在に憧れるのは、彼女が、流行ではなく、スタイルを創った人だからである。そのスタイルとは、現在へと続く女性の生き方そのものと切っては切り離せない。パンツルックにマリンルック、ココ・シャネルが創った服は、女性性として男性の気を引くために装うのではなく、男性と同じように活動し、生きるために必要な服なのだ。「私のように男性と対等に生きるためには、私のような装いが必要でしょ」、シャネルの服はそう雄弁に告げる、ファッションという名のマニフェストなのである。そんな服を創る人生を生きた女を演じるにあたっては、彼女と人生観を同じうする女優が必要なのである。
 1969年初演の作品だから、いまさら文句を言っても始まらないところもあるのだけれども、私は実は、最後の方の展開があまり好きではない。シャネルは、自分のメゾンで働く若いモデルのノエルを実の娘のように気に入り、彼女と同じ家に住み、人生の時間を共に過ごしたい…と願ったところで、ノエルの結婚話を知って落胆し、孤独の内を絶唱する。結婚も出産もしなかったが世界的な成功を収めた女に対する男性クリエイターの嫉妬というか、そういう女はどこか何かが欠落していたということにしておかないと腹がおさまらないのだろうな…と思って、あきれてほとんど笑い出したくなるけれども、鳳蘭も、「どうしてそういうありふれた展開にしたいのか、私もようわからん」と演じていて、その無理解を私は断固支持する。ロールモデルはそう来なくっちゃ、快哉! である。
 モデルのノエルは初演では湖月わたる、今回の上演では彩吹真央と、宝塚の後輩二人が務めている。モデルとして働くんだからもうちょっとおしゃれな服を着なさい…とココが手渡すのが、初演では、手の込んだ繊細な作りのふわふわとしたドレスで、それがもう、どこかであんなドレス売ってないかな、いっそ売ってほしいくらいと思っていたほど好きだった私としては、再演版ではシンプルなワンピースになってしまっていたのが非常に残念だった。それはさておき、初演の際の湖月は、宝塚を退団してから三年が経過していたということもあって、“男役から女優へ”という課題にそれだけ冷静に向き合える部分があり、手渡されたドレスを着て現れるこの場面でも、男役から女優へと転身を遂げ、装いも変わったときの自身の女性としての新鮮な決意をこめていたのが非常に印象的だった。一方の彩吹は、「…あれ、今年の四月まで男役やってたんだよね?」と思わず確かめたくなってしまうほど、女優姿に違和感がないことに驚かされた(たまに仁王立ちになる点だけ要注意)。セリフ回しも、最初のうちは若干、“女”を意識しすぎかな…と思った箇所もあったが、鳳蘭についていくうちにちゃんとナチュラルに。男役時代の彼女の個性は“ヘタレがチャームポイントの優等生”だったけれども、歌えて踊れることを強みに、女優・彩吹真央の個性を見つけていってほしい。
 それにしても、カメリアにマトラッセ、シャネルのアイコンをあしらった秀逸な舞台装置(松井るみ)に、華麗なファッション&帽子の数々と、購買欲を刺激してやまない作品である。終演後、泣きはらした目もそのままに、再びシャネル銀座店へと行進していったあひる(苦笑)。あひるは、一見シャネルとはわからないような、でも、こんな遊び心にあふれたものってやっぱりシャネルにしかないよな…と思えるようなアイテムが好物。店内をじっくり見ていると、…ありました、薄いグレーの中折れ帽で、大きなつばの周囲にぐるっとピンクに染めたあひるならぬダチョウの羽根があしらわれている一品が! でも、参考商品だった…。ココ・シャネルはもともと、帽子創りからメゾンを始めた人なので、前から、ニット帽やベレー帽以外の本格的な帽子がほしいと思っているのだけれども、なかなか似合う帽子に出逢わなくて…。いつかめぐり逢えたらいいなと、お店を後にした次第。

 ちなみに、今年、「こういう若手の女優さんが出てくると、これからの演劇界も楽しみだな」と思った一人が、鳳蘭の次女、文学座の荘田由紀である。三月、杉村春子の当たり役だった「女の一生」のヒロインという大役に挑戦したが、舞台を堂々と引っ張ってゆく演技が見事な限りだった。若い時代と、老いてからがとりわけよく、憎からず思っていた相手の兄弟と結ばれることになってしまい、その思い人からもらった櫛をひょいと投げ捨てるところなど、せつない思いの丈がにじみ出るような繊細な心情表現が光った。ぜひいつか母娘競演を観てみたいものである。
 5月に来日公演のある「ドリームガールズ」の取材で、昨年12月、ブロードウェイに行ったときのこと。演出のロバート・ロングボトムにインタビューしていて、「ドリームガールズ」がバックステージものということで、話の流れで「今までショウビジネスに携わっていて一番傷ついたこと」を尋ねたら、「『ドリームガールズ』でもチームを組んだ作曲家ヘンリー・クリーガーと一緒に心血を注いだ作品『サイド・ショウ』が、ブロードウェイで、自分が思い描いたようにはロングランしなかったこと」という答えが返ってきた。そのときの彼のナイーヴな表情が忘れられなくて、それだけに一層気になっていた「サイド・ショウ」なのだが、一昨日、日本人キャストによる公演を観て、「私はすごく好きな作品!」と彼に言ってあげたかったな……と思ったのだった。
 確かに、観劇までのハードルが高そうな作品ではある。主人公はシャム双生児で、オープニング・ナンバーは「フリークスを見においで」。映画も大ヒットした「ヘアスプレー」について、「太った人が主人公のミュージカルなんて観たくない」という意見を聞いてびっくりしたことがあったのだが、その向きなら絶対に劇場に足を運ばない作品であろうとは思う。どんな人物が主人公であろうが、最終的に人間の中の善きものが描かれる作品ならば私は一切構わないのだけれども、このオープニング・ナンバーでトカゲ男がそれはぬめぬめ踊っているのを観て、う、こういうグロい感じが続くんだったらちょっとつらいかもと、少々引きそうになった。しかしながら、舞台が進むにつれて、はっきりと見て取ることができた。この作品は決して、特異な立場に置かれた特異な人物がたどる特異な物語を描きたいわけではない。特異な立場に置かれた人物にフォーカスすることで、すべての人間がたどる普遍的な物語を描きたいのだと――。
 例えば思春期の頃、身体的なものをはじめとするコンプレックスに悩まない人間の方が少ないだろう。そして、多くの人間は、自分の中に、相反するかもしれない複数の性質や夢を抱えていたりする。シャム双生児の姉妹の一人、デイジーのように、注目を浴びたい、仕事で成功したいと思い願う一方で、姉妹のもう一人、ヴァイオレットのように、人に見られるのはつらい、温かな家庭を築きたいと思っていたり。コンプレックスを抱え、自分の中に内なる二人を抱えて、人は生きていかざるを得ない。コンプレックスに思う弱点は、人生の上で、ときに優位に働きもする。シャム双生児であることで注目を浴びてしまうなら、その注目を逆手に取って、有名人になってしまえばいい。自分のコンプレックスとどう向き合って生きていくか。内なる“二人”のうち、どちらの声に耳を傾けるのか。そんな人生の普遍的なテーマを、“シャム双生児”という特異な切り口から描こうとするのが、この「サイド・ショウ」という作品なのである。
 切り離せない二人はずっと一緒にいて、それがために、愛という夢をつかむことはできなくて、傷ついて悩んで、けれども、孤独に苦しむことあっても、結局はお互いがいる。一人にはなれないという苦しみをこの世で誰よりも分かち合えるお互いが――。そんな想いほとばしるクライマックスは、人生でどんな困難にめぐり会おうともなお、その人間の心の中に確かにあり続けるものについて、観る者に問いかけずにはおかない。絶望して、それでも生きていかなくてはならない、と思ったとき、それでも、その人間のかたわら――”side”――にあり続けるものは何なのだろうかと。それさえわかっていれば、コンプレックスも悲しみも、すべては”side show”――“取るに足らない、二次的な問題”なのである。
 この作品の今一つのハードルは、“シャム双生児”という存在を鏡に、人の心の中にひそむいびつさを映し出すところにある。人はときに、自分と違った存在を目の当たりにして、自分が“普通”であることにほっとしたりする弱い生き物である。何が普通で何が普通でないかなんて、時と場所につれて変わる相対的な基準でしかないだろうと思わずにはいられないけれども。そして作中、その手のゆがんだ“普通”確認=差別にさんざん苦しめられてきた姉妹もまた、肌の色の違う男性の求婚を受け入れることができない。「自分とは違うから」と――。ラストでもう一度歌われる「フリークスを見においで」は峻厳に問いかける。あなたの心の内に、そんな“フリークス”はいないかと。人はそれぞれ違って、でもやはり同じで、それでいい、そのことを認められないいびつさはないだろうかと――。
 こうして書いていて、確かに万人受けする話じゃないのかもしれない、と考えつつも、それでも、この作品が心に届いた観客も確かにいるはずだから……と思いたい。
 ハードル高き作品であればあるほど、繊細なスタッフワークが求められるところ、このたびの日本公演は、その意味では残念な点が多い。先に述べたような作品の普遍性、問いかけるもの、そして演者それぞれの個性と魅力が最大限に引き出されるとは言い難い。ヘンリー・クリーガーが手がけた、ときにあざといほどにドラマティックで一癖も二癖もある味わいがクセになるナンバーは難曲も多く、音域の広さに少々苦戦の向きも感じられる。それでも、歌える個性豊かなキャストが揃っていることは言を俟たず、作品のバロックパール――“ゆがんだ真珠”――の如き本質的美しさは決して失われてはいない。達者な樹里咲穂はチャキチャキしたところがいかにもアメリカン・ミュージカル向きで、ほとんど腕だけで表現する踊りも雄弁、勝気なデイジー役によく似合う。おっとりとした個性で内気なヴァイオレット役をしっとり見せる貴城けいとのキャラクターの対比もあざやか。デイジーを愛する下村尊則はときに恋する男というより何かの大魔王? みたいに見えて&聞こえてしまうのがご愛敬だが(それはそれで非常に魅力的な個性ではあるのですが)、ファビュラスな胡散臭さはプロデューサーという役どころにぴったり。ヴァイオレットに想いを寄せる伊礼彼方も、結婚を躊躇するクライマックスでの人間性の弱さの表現が演出でしっかり引き出されていれば…という点が残念だが、「The Musical AIDA」ラダメス役でも発揮したまっすぐな伸びやかさはそのままに、はじけたナンバー「ワン・プラス・ワン・イコール・スリー」ではキュートな魅力全開だ。
 それにしても、ヘンリー・クリーガーが楽曲を手がけているバックステージものという点だけではなしに、ずるくて弱い男の“愛”を断ち切って人生の新たな局面を切り開こうとする女性のしなやかな強さを描いているという意味で、「ドリームガールズ」とも魅力の大いに共通する作品だなと思う。「ドリームガールズ」のラストで手に手を取って歌うガールズを観ていて、そこに立ち現われる女同士の絆の深さに”sisterhood”という言葉を思い浮かべたのだけれども、「サイド・ショウ」の場合は本当に姉妹なわけだし。「サイド・ショウ」を楽しんだ方は「ドリームガールズ」を観るとさらに楽しく、「ドリームガールズ」を観る予定の方は「サイド・ショウ」も観ておくとさらに楽しくなると思う。
 「Triangle〜ルームシェアのススメ〜」(2日19時、パルコ劇場)観劇。若手ながら手堅い仕事ぶりで注目される劇作家・演出家、蓬莱竜太の脚本に、70〜80年代の洋楽ヒット曲がさくっとハマって、新感覚のショーステージ。「恋はあせらず」(あひる的にはやっぱり、フィル・コリンズ!)、「マイ・シャローナ」、「オール・バイ・マイセルフ」等々、楽しいナンバーに乗って、井上芳雄、新納慎也、彩乃かなみがはじけまくる。「ラジオスターの悲劇」に合わせて「おかわり〜」なんてご飯茶碗を突き出しちゃう彩乃がキュート。ちょっとオタクの入った小説家志望の青年を演じた井上も、力の抜けたコミカルな演技がいい感じ。二幕はほんのちょびっとだけヘビーだったけど、蓬莱の脚本はさすが、笑いあり涙あり、人物描写も筋立ても的確ながら肩が凝らずに楽しめる仕上がりで、こういうタイプの作品が増えるとうれしいなと思った次第。