藤本真由オフィシャルブログ

 7月のKバレエカンパニー「トリプル・ビル」の公演で、荒井祐子は伊坂文月とペアを組んで「ラプソディ」を踊った。振付はフレデリック・アシュトン、来年3月にKバレエで上演される「バレエ ピーターラビットと仲間たち」の振付家でもある。ラフマニノフ作曲の「パガニーニの主題による狂詩曲」を用いたこの作品に物語はなく、音楽にのって超絶技巧が展開されてゆく。音楽を観る喜びがそこにはある。
 5月の「白鳥の湖」以来、私は勝手に荒井祐子を美の同志だと考えている。日本の女の子には日本の女の子の美がある。その美は誰より、日本の女の子同士で認め合うことで、さらに確かなものとなり、磨かれてゆく。私はそんな活動を、宝塚歌劇を観、評論することで、愛する宝塚歌劇の仲間たちとずっと続けてきた気がする。そして、今ここに、新たなる分野に新たなる仲間を見出したのだ。私にとって最高のバレエ・ダンサーの一人に。荒井祐子が輝く瞬間が好きだ。ひときわ大きく見える瞬間が好きだ。細やかにステップを刻む瞬間が好きだ。彼女の美しい心がその踊りに発露する瞬間が好きだ――。
 「ラプソディ」では、振付を正確にこなす、そんな次元を超えて、音楽や振付に対し、ちょっとしたニュアンスやしぐさなど、彼女ならではの解釈がその身体で示されるたび、――、…ああ、彼女はこのようにこの美しい楽曲を聴いているんだな、このように聴けるなんてうらやましいな、そう思う瞬間が何度もあった。
 第18変奏、アンダンテ・カンタービレ。二人は互いの回りを舞う。――その情景がいつまでも心から離れない。今や私の心の中で、荒井祐子がくるくる、くるくると回っているのである。――永遠に!

(7月17日14時、オーチャードホール)
 「白鳥の湖」の印象深い音楽的体験はこれまで二度ある。一度は、2007年に国立モスクワ音楽劇場バレエが来日、首席指揮者フェリックス・コロボフが振った舞台を聴いたとき。途中から指揮者はほとんど踊りをぶっちぎって、自分の音楽の世界を展開していた。三幕で出てきた道化は目を四苦八苦、その音楽のスピードについて行けなくなっていた。四幕はもはや舞台上で起きている物語と音楽とがまったくかみあっていなかった。厳然たる音楽の前に、物語はほとんどメロドラマにさえ見えた。振り終わったコロボフくんは、「…俺の――『白鳥』!…」と言わんばかりに満足気に高揚していたが、バレエ団的にはあの演奏はどうだったんだろうか…。もう一度は、2005年にマシュー・ボーン版が来日してのオーチャードホールでの公演の際、東京フィルハーモニー交響楽団が演奏を務めたとき。二幕のアダージオ、ザ・スワンと王子の踊りに、コンサートマスター荒井英治のヴァイオリンが艶やかにからみつき、官能的だった。ただ、このときも、ヴァイオリンのスピードが踊りのそれを上回っているきらいがあった。二度とも、音楽が踊りに先行していたわけである。

 今年5月のKバレエカンパニー「白鳥の湖」。――私は、後にも先にも、あんな「白鳥の湖」を観たことも、聴いたこともない。遂に音楽と踊りとが溶け合い、――そして、物語の、音楽の、新たな地平が私の中で拓かれた。そのためには、荒井祐子のオデット/オディールが、熊川哲也のジークフリードが必要だった――。
 二幕、アダージオ。――官能の極み。オデットは、王子の――否、私の――腕の中で、女性の姿になり、また、白鳥の姿にもなった。白鳥なのか女性なのか、どちらともつかぬ生き物が、私の髪の中に頭を埋めていた――。その、どちらともつかぬ美しい生き物を、私はただただ撫でさすり、その感触に恍惚を覚えていた。
 三幕、舞踏会。生を謳歌する「カルメン」タイトルロールの経験が生きた黒鳥。小柄な彼女がひときわ大きく、艶やかに見える瞬間。どこか優柔不断で気弱なところもある王子を、至宝スチュアート・キャシディ扮するロットバルト共々、その気迫で圧倒する。――王子が黒鳥にひかれるのも無理はない、そう思った。それほどまでに、黒鳥は生のパワーに満ちあふれているのだ。美の前に、白黒、善悪などもはやどうでもよかった――。
 四幕、再び湖のほとり。もはや、人間と白鳥、愛が種を超えていることすらどうでもよかった。そこに愛がある以上、問題なのは、種を超えて愛し合うことを問題視する周囲の方だった。――その意味で、マシュー・ボーン版「白鳥の湖」の解釈に同意する。ただ、私は、ボーン版の振付ほど、チャイコフスキーの音楽に暴力性を聴かないけれども――。そしてクライマックス。
「私は、音楽を通じて、白鳥と一体となった――」
 「白鳥の湖」の音楽とは、チャイコフスキーのそのような宣言だったのである。だからこそ官能の極みなのである。“舞台は最高のエクスタシー”――まさに、この日劇場で感じたことであるが――に倣って言うならば、“音楽は最高のエクスタシー”。人はそれぞれ孤独な存在として生まれ、死ぬ。人が他者と一体となる上ではさまざまな手段があろうが、多くの人にとってその筆頭に上がるであろう手段はセックス、肌と肌を合わせることである。だが、芸術家とは、劇場空間においても自らと他者、あるいは他者同士、あるいはその場に集った人々すべてをも一つにしてしまうことができる存在である。それぞれの芸術の手段を用いて、心を一つにさせることで。それこそが“舞台は最高のエクスタシー”の瞬間に他ならない。「白鳥の湖」において、チャイコフスキーの芸術はさらなる段階へと達している。すなわち、人間とは異なる種、白鳥をも一体としてしまっている。まず自らが白鳥と一体となり、それを聴く人間をもまた一体としてしまう。「白鳥の湖」を聴き、観るとは、究極的には、チャイコフスキーと一体となり、その行為を通じて彼が一体となった白鳥ともまた一体となるという、至福の体験だったのである――。…芸術家とはほとんど変態と紙一重であるな、そう思った。その変態性こそがすなわち芸術性だったりするわけだが。

(5月25日15時&5月26日14時、オーチャードホール)
 12月23日16時半の部、赤坂ACTシアター。スケジュール的にちょっと無理をしましたが、今年も無事、Kバレエの「くるみ割り人形」を観劇できて、ホッ。年末の恒例行事。幅広い層の観客が見受けられ、クリスマスに赤坂ACTで「くるみ割り人形」を観劇するのが定着してきていることを心からうれしく思った次第。
 作品は毎年少しずつ手直しされ、ブラッシュアップされている。今年は、車椅子に乗って登場するクララのおばあちゃんが、立ち上がって、クララたちに囲まれちょっとだけ踊る演出に、…すべての女性はかつて、少女であった…との思いを深くし。
 それにしても。何度観ても心わくわくどきどき、物語の世界に引き込まれてしまう魔法はいったい、どこにあるのだろう…。クリスマスツリーが巨大化し、人形たちとねずみたちの戦争が始まるシーンで、自分が本当に人形サイズに姿縮んで、クララたちと同じ地平にいる気持ちがして…。私はクララだった。くるみ割り人形を助けるため、勇気をふるって見知らぬ世界へと飛び込んでいって、闘っていた。そして美しい雪の国の場面。雪の六角形を表す、鋭角的な振付。激しい舞。舞い散る雪。――カナダに住んでいた少女の頃、雪が降った翌日、家族でクロスカントリー・スキーに出かけ、メープルの木から垂れ落ちるシロップをそのまま新雪につけて口にふくんだ、その冷たいおいしさを思い出した。
 ドロッセルマイヤー役の杉野慧がよかった。クララを異界へと誘う夢先案内人にふさわしい優しさと包容力とを感じさせた。ドロッセルマイヤーはKバレエの至宝、スチュアート・キャシディが初演し、今日まで踊り続けている当たり役だが、くるみ割り人形/王子もドロッセルマイヤーさんも二人とも素敵! というところが、雪の国の前景のクララを交えての踊りの魅力にもつながっていると思うので、2013年からこの役を踊ってきている杉野の成長は非常に喜ばしい。人形の王国では、男性ダンサー陣にバレエ・マスター遅沢佑介の面影を感じることも多く、熱い指導のほどをうかがわせた。
 クララが“夢”から覚める瞬間、――私は、現実から夢へとはっと覚めるような思いがしたのだった。雪の国と人形の王国とで経験してきた冒険、そちらの世界の方が、私にとっては現実であるような。普段“現実”として生きている世界の方がむしろ“夢”であるような。優れた舞台の客席に在るとき、私は、心の世界を生きられる。そしてその方が、私にとっては心地よい現実なのだ。決して“現実”から逃げているわけではない。“現実”をよりよい世界とするためには、現実と“現実”とを地続きにすることが必要である。人々の心の中に本来ある美しさを結集させて、“現実”をよりよい世界にしていく上でも、劇場空間は大きな役割を果たし得る場所であると、今年、熊川哲也の「くるみ割り人形」の世界をクララとして旅して、より一層深く感じたのである。
 11月18日14時の部、東京文化会館大ホール。
 舞台は古代インド。舞姫ニキヤと戦士ソロルは愛し合っているが、ソロルは領主ラジャの娘ガムザッティの美貌と権力とに目が眩み、彼女との結婚を承知してしまう。ガムザッティはニキヤを妬み、婚約の宴、踊るニキヤの花かごに毒蛇を盛り、彼女を死へと至らしめる。ソロルは麻薬に溺れ、永遠の死の世界、そこで踊るニキヤを夢想する。――と、大地震が起こって寺院は崩壊、世界を清めるように、ブロンズ・アイドルが舞を捧げる――自身の当たり役として知られるブロンズ・アイドルの踊りに、熊川哲也芸術監督は、自分の演出版においてはこのような意義を持たせている――。ソロルは死後の世界でニキヤと結ばれる。
「…でも、死後の世界で結ばれるなんて、俺は嫌だ!!!」
 ――何も、この物語を、その結末を否定するということではないのだと思う。死後の世界で結ばれることを夢想する前に、生きた世界で結ばれるために力を尽くす、そういう思いの方が強いということだと思う。
 それで思い出した。――ある人が伝えてきたことがある。自分が死んだ後、生きている君の前に幽霊として現れるのも面白いかもしれない。ひいては、君は亡くなった父上と話をしているみたいだから、その方法を教えてほしいと。いやあ、生きている間は生きている者同士として話をしましょうよと、私は思った。それに私は何も特別なことをしているわけではない。自分の心の中の父と、――その人と、話をするだけのことである。
 生きている我々は死を知らない。死後の世界を知らない。――臨死体験を否定するものではなく、逆に、非常に興味深く思うものだけれども。であるから、死後の世界を描くということは、結局のところ、生の世界を描くことに他ならないのだと、今回、「ラ・バヤデール」を観ていて思ったのである。芸術監督は死を、すなわち生を描く上でさらなる深みへと一歩踏み出したのだと感じた。

 10月の終わりから11月の中旬までずっと、「エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート」公演プログラムのための取材と執筆をしていて、来る日も来る日も、生と死について考えていた。そして私はずっと、アンチ・トートのことをも考えていた――。6月に顔を合わせたとき、私があんまり死にたい死にたい言ったので、ものすごく怒られてしまって、それがものすごく怖かったのである。心が通じている人と、結局のところは通じてはいなかったのかな…と思ったのが、そのときの嘆きの原因だったのだけれども。でも一方で、…例えば今すぐ死ぬとなったらそれはやっぱり嫌かもしれない…という話をしたら、「普通はみんなそうです!」とアンチ・トートは言うのであった。自分にもやはり生への執着はあるのだなと思った。
 それで、ようやく気づいたのである。トートに「死ねばいい!」と言われて、けれども死なないということは、ようは、「生きたい!」と思う気持ちと表裏一体であると。――エリザベートも、実際に死ぬのはルキーニに刺された最後だけである。その前は、何度も死に誘われようとも、死にはしない。つまり、自分が生み出した幻想であるトートに「死ねばいい」「死にたいのか」と言われながら、その一方で厳然とそれを拒否し、生きている。私自身、“トート”に、「あの電車に飛び込んでいたら今頃死ねていたじゃないか」と言われたときも、結局のところ、そうしてはいなかった。――あのとき、自分は生きたいと思ったのだ。生きていようと思ったのだ。「死にたい!」と強く思って、でも実際には死んではいない人間ほど、「生きたい!」と強く思って実際にもそうしている人間なのかもしれない。
 ちなみに、「エリザベート」という作品を観ているとき、アンチ・トートが登場することはない。作中、彼の登場の音楽は流れないから。アンチ・トートにもやはり固有の音楽があるな…とは思っているのだけれども。
 その後、アンチ・トートに顔を合わせるのがちょっと気まずくなっていたのだけれども、…いざお互いの顔を見たら、お互い、ほっとした。心の底から謝りたかった。そのときちゃんと伝わっていなかったら嫌なので、ここにもう一度、はっきり記す。ごめんなさい。もう二度と、死にたいなんて言いません。その代わりに「生きたい!」と言います。それが私の本心だから。もし万が一、私が気弱な風にまた吹かれそうになったそのときは、「死にたいなんて言っちゃいけません!」と怒ってください。…ただし、あんまり怖くない感じでお願いします。
 10月27日14時の部、オーチャードホール。シンデレラ=浅川紫織、王子=宮尾俊太郎。
 今年、夏バテがひどくて、一時期家にずっとこもりきりになってしまい、夫も例年になく海外出張が多く、近所に住んでいる母が一日一度やってきてやっと話し相手にめぐり会える、そんな日すらあった。だから、「シンデレラ」を観ていて、話し相手がいないシンデレラの孤独が、これまで以上にひしひしと身に染みて感じられた。私の場合は本を読むことはできたから、さまざまなジャンルの書物を通じて想像をふくらませていた。自分自身が活動できないときは、想念の世界に翼を羽ばたかせて生きるしかない。今回、一つ思ったのは、そもそも、シンデレラと義理の母&姉たちはどうしてそんなに仲がこじれてしまったのだろうということである。生まれながらにして意地悪という人がいるとはちょっと想像しがたいし、父という存在を通じてどこか心結ばれるところがあってもおかしくないのにな…と。
 シンデレラは、仙女の助けを借りてお城の舞踏会に行く。孤独な彼女にとってどんなにか晴れがましい瞬間だったろう。私も、やっと体調が回復し、元気に劇場に行けた夜は、…いつも、毎日のように足を運んでいる場所なのに、もううれしくてたまらなくて、目が眩むほど幸せな思いでいっぱいだった。本当はいつもそういう思いで満たされているべきなのかもしれない。当たり前だと思っていることに、もっと感謝すべきなのかもしれない。どうしても、仕事で劇場に行くとなると、どこかちょっと緊張したり身構えたりしてしまうけれども。
 舞踏会で舞うシンデレラ。――今目にしているのがクラシック・バレエであるとか、そのテクニックであるとか、そういったことすべてを超えて、あ、シンデレラが生きて動いている! と、浅川紫織が本当にシンデレラそのものにしか見えない瞬間があった――。宮尾俊太郎も、これまでになく頼もしい王子っぷりを見せた。私は彼のちょっとクセのある芝居心が好きで、「ロミオとジュリエット」のパリスや「ウォルフガング」のサリエリといった役どころでその芝居心が軽妙に発揮されるのが大好きで、だから何だか王子の役どころだとその芝居心にふれられないように思えていたのだけれども、どうしてどうして、この日の宮尾は、孤独なシンデレラが出逢えて喜びを感じるにふさわしい、堂々たる王子の踊りだった。
 今回、ラストの演出が少し変更になっていた。――幼き日のシンデレラの回想が描かれる。お父さんとお母さんと、三人で一緒に歩く彼女の前に、仙女が姿を現す。――その情景に思い出されたのは、何故か、かつて<逢魔が時に>(http://daisy.eplus2.jp/article/416022272.html)で記した美のヴィジョン、お父さんとお母さんに片方ずつ手をつながれておうちへ帰る、少女のころの壮一帆の姿なのだった。
 もしも自分の命が非常に限られたものであったなら――と考えたことがある。見たり行ったり食べたり買ったり、そういった願望はある意味もちろんきりがない。けれども、これまで割に好きなことをして生きてきたので、それは大丈夫だと思った。愛する人々とできるだけ多くの時間を過ごしたい、それが一番の望みだと思えた。そして私の場合、“愛する人々”の中には、家族や友人に加えて舞台人も多く含まれているのだった。人生で多くの時間を劇場で分かち合ってきた人々。
 その筆頭に熊川哲也を挙げたとしても決しておかしくはないだろう。20代で出逢い、この人を書くことで自分の文章を磨いていきたいと願った、元祖インスピレーション。
 熊川は7月のKバレエカンパニー「Triple Bill」で「アルルの女」を踊った。ローラン・プティがジョルジュ・ビゼーの楽曲に振り付けたこの作品には、青年フレデリと彼に思いを寄せる村娘ヴィヴェット、そしてフレデリが一途な愛を捧げる、舞台上には一度も姿を見せない“アルルの女”が“登場”する。ヴィヴェットの思いをわかってはいても、フレデリは“アルルの女”を忘れることができない。立ち去るヴィヴェット。そして狂気にさいなまれ、窓の外へと身を投げるフレデリ――。
 フレデリの姿を、此岸と美の彼岸とに引き裂かれたものとみては少々類型的なアナロジーに過ぎないのかもしれない。熊川はといえば、自分から奪われたら狂うであろうものについて踊っていた。自分に愛を教えたものについて踊っていた。2014年の「オーチャード25周年ガラ」で踊ったときより、狂気の表現が凄みを増していた。――その姿を観ていて、私も、自分から奪われたら狂うであろうものについて思っていた。愛する人々と過ごす時間。劇場の客席で観客として過ごす時間。昨年暮れ、体調を崩して劇場に行けなくなり、半月後にようやっと出かけていって観た、熊川演出・振付の「くるみ割り人形」が、干上がった心の砂漠を慈愛の雨のように潤してくれたことを思った。私にはその時間が何より必要なのだ――。かつて私は、自分が狂っているのかこの世が狂っているのか、どこか勝負を挑むように生きていて、自分は孤独だと思っていた。今は違う。人々の中に生きていて、その人々との時間が奪われたら、孤独で、狂ってしまう。何年かのうちに自分は変わったのだと思った。
 そして私は、奪われたくなくて、奪われないためにはどうしたらいいかと考え、自分なりに必死で力を尽くしたものについて考えた。熊川哲也と劇場で過ごす時間――。
 ダンサーならば、引退についてどうしても考えないわけにはいかない。そして、引退してしまえば、その相手と劇場で時間を過ごすことは不可能である。けれども。その人物が演出家、振付家としても才に恵まれていたとしたら? その人物が創った作品を観られるということは、その人物と劇場で時間を過ごせるということである。私は躍起になった。傍目からすれば少々躍起になりすぎて見えたかもしれない。「君があんな書き方したら、熊川くんだって創れるものも創れなくなっちゃうよ!」と、ある芸術家にたしなめられたことは以前書いた。でも、私は必死だったのである。何より、その人物に、踊っている自分にしか価値がないと思って欲しくなかった。
 そして、熊川哲也は演出家・振付家として見事花開いた。その上で、私の文章が多少なりとも何かの助けになったのだとすれば、それで十分なのである。
 そんな思いで「アルルの女」の舞台を観ていた。狂気を観ていた。演出家、振付家としても優れているその人は、その上で、やはり優れたダンサーなのだった。――その姿を観ていて、例えば、……壮一帆みたいな女の人に生まれたかった!……と思ったように、熊川哲也のように生まれたかったと思うかといえば、それは違う。私はやはり、踊る熊川哲也を観ていたい。その肉体が舞台上で生きる姿を観ていたい。そして、そのような人生に生まれて、熊川哲也と同時代に生まれて、自分は幸せであると心から思った。そして私は、いつの日か、彼も、私も、歴史の一部となり、遠く俯瞰される時をまざまざと見ていた――。
 3月11日14時の部観劇(オーチャードホール)。
 「ドン・キホーテ」ってこんなにもおもしろい演目だったんだ…と改めて思った。どちらかというと、物語を楽しむというより華麗なテクニックを楽しむ演目のように思えていたからだけれども、熊川哲也芸術監督の手にかかれば、登場人物たちが生き生きと息づく。まずは、街の人気カップル、キトリとバジルの恋の行方と、それを取り巻く人間模様が賑々しく描き出される。アンサンブル一人一人まで、この街に生きている人間なのだときちんと伝わってくる細かな目配りと、演じる一人一人の意識。そこに、騎士に憧れ、キトリを見て崇拝するドルシネア姫だと勘違いするドン・キホーテと、彼に付き従うサンチョ・パンサのデコボココンビがしっかり絡んでくる。風車に突進して意識を失ったドン・キホーテが見る夢の情景は、バレエならではの美しい、そして意味深長にも感じられる幻影である。バレエにおいてはドン・キホーテの影が薄いことが多く、この作品をさらに深めるとしたらこの夢の情景を含め彼のキャラクターを深めていくんだろうな…と思っていたのだが、この役を演じる“Kバレエの至宝”スチュアート・キャシディの存在感際立つ演技と、場面場面でドン・キホーテとサンチョ・パンサをしっかりその他の登場人物に絡めて描く演出が効果大である。
 芸術監督演出の舞台を私が愛するのは、そこに確かに“愛”があるからである。主役カップルの愛だけではない。芸術監督が愛をもって一人一人にきちんと目を配っているからこそ、出演者全員が舞台にきっちり息づくことができる。バレエでも演劇でも同じことだが、演出家の目配りが全員に行き渡っていなかったりすると、出演者の目線はどこか宙を泳いで客席にまっすぐ届かなかったりするものである。
 芸術監督がローザンヌ国際バレエ・コンクールでゴールド・メダルを獲得したのも、英国ロイヤル・バレエ団でプリンシパルに昇格したのも、「ドン・キホーテ」を踊ったときだった。芸術監督にとってはそれだけ思い入れの深い演目であって、彼がこの音楽を聴くと感じるさまざまなときめきが十二分につまっているからこそ、こんなにもおもしろい舞台に仕上がっているのだと思う。非常に心満たされた状態で創っている舞台なのだ…ということが伝わってきて、そうなると、オーチャードホールが何だか、美の祈りを捧げる厳かな聖堂のように感じられてくるから不思議である。

 さて、この日、主人公バジルを踊って、入団2年目の篠宮佑一がセンセーショナルな主役デビューを果たした。登場、まずは好いた者同士のじゃれ合いで、キトリに強引にキスしに行ってかわされるくだりがかわいらしい。そして、お金がないという理由でバジルとの結婚に反対するキトリの父から財布をこっそり頂戴し、「お金ならあるよ」「あったのか、…いや、これ、俺の財布じゃないか〜」のやりとり、メリハリのついた芝居で笑いを誘うあたり、演技の巧さに感心。そして、客席が乗ってきたのがわかったのか、踊りも含め舞台がどんどんテンション・アップ。極めつけは、「ドン・キホーテ」といえばおなじみ、結婚式のグラン・パ・ド・ドゥ。会心の踊りだったのだろう、ソロが終わった瞬間、ニッカーと笑ったのである! …こんなに笑顔全開の人、あんまり観たことないかも…と、こっちもつられて思わず笑顔。すると、彼の高揚が伝染したようで、続いて踊るダンサーたちもみんなニコニコ。楽しい作品だから、幸せな結婚式の場面だから、それがぴったりなのである。終幕に向けみんなが楽しくなって、そして、篠宮バジルはといえば、もうもう振り切れてしまい、踊りのキレは冴え渡るわ何だか面妖なポーズは出そうだわ…。よくぞ初主演でここまで踊り切った! という感動の涙と、…あの、今あなた相当おもしろいことになってますよ〜というおかしさへの笑いとで、泣き笑いでフィナーレを迎えたあひるであった。振り切れておもしろいことになっている、その様が愛おしいのを目の当たりにしたことのある舞台人はといえば、それこそ芸術監督然り、壮一帆然り、四代目市川猿之助然り、…でも、初主演でここまで行った人、他に観たことあったかな…と記憶を探って、思い出した。「スカーレット ピンパーネル」新人公演初主演の紅ゆずる。
 舞台上の人々と客席の人々とを自分のエネルギーで巻き込んでいけるという意味では主役向きなのだと思う。そして、おもいっきりキザに決める、その様が微笑ましく似合うという意味では芸術監督にも通じる魅力をもつ。若いのに何だか老成した雰囲気も感じさせるところがあり、愁いを秘めた役柄も観てみたいものである。ちなみに、明日13日の最終日には、バジルの恋敵、白塗りコミカル・キャラのガマーシュを演じるとか。それもまた幅の広い…。篠宮佑一。今後の活躍が楽しみである。
 街を歩いていて、偶然耳にする音楽がある。自分の意思とはまったく関係なく、耳に飛び込んでくる音楽。そうして聴こえてくる音楽もまた、何らかの意味をもっているのではないかと考え始めたのは、数年前からのことである。きっかけは、熊川哲也芸術監督と、ピョートル・チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。以前、「オー人事」のCMでも流れていたから、冒頭のメロディをご存知の方も多いと思う。少々不思議な経緯ではある。「弦楽セレナーデ」にジョージ・バランシンが振り付けた「セレナーデ」はKバレエカンパニーのレパートリーに入っているが、私は芸術監督自身がこの作品を踊るのを目にしたことがあるわけではない。何故、両者が結びついたか――。
 あるとき、演奏会で「弦楽セレナーデ」を聴く機会があった。バレエで「セレナーデ」を観るときはどうしても舞台上で繰り広げられている踊りを観ているから、音楽そのものが伝えるヴィジョンを観るわけではない。これはいい機会だと思った。「世界はこんなにも美しいのに、自分はどうして絶望しているのだろう」――「オー人事」のあのくだりが、その夜、こう聴こえた。――華やかなロシアの夜会。さわやかな朝。そして再びあのくだりが流れ、今度は、「世界はこんなにも美しいのだから、自分は書いていこう」、そう聴こえた。
 ――不思議に思った。バランシンは何故、こんなにもロシアの情景を思い起こさせる楽曲に、「セレナーデ」のような振りをつけたのだろうと。「弦楽セレナーデ」はチャイコフスキーが旅先において、故郷への思いをも胸に書いた作品である。バランシンの「セレナーデ」はといえば、ロシア出身の振付家がアメリカに渡って最初に振り付けた作品で、生徒が稽古場で転んでしまった姿をそのまま振りに取り入れたりしている。そして、ロシア的とは思えない。次に「弦楽セレナーデ」を演奏会で聴く機会があったとき、私は天上のバランシン先生に問いかける気持ちでこの曲に接した。
「…だって、ロシアだの何だの言ったって、アメリカ人にはわからないじゃないか〜〜〜」
 ――バランシンもまた、望郷の念をもってこの作品を振り付けたのかな、と思った。振付時、彼が育った帝政ロシアは既にない。そして彼自身は、当時バレエ後進国であったアメリカの地に在る。ロシアのバレエとアメリカのバレエ、その断絶。そこから彼は、アメリカならではの新しい魅力に満ちたバレエを次々と生み出していったわけである。
 そして、何とはなしに、芸術監督のことを思い出した。イギリスのバレエの歴史と、日本のバレエの歴史とでは、長さはそんなに変わらないんだよ、そう言っていたことを。
 その夜、演奏会からの帰りのバスが信号待ちしている際、ふと車窓を見やると、そこには看板。
「らーめん てつや」
 しかも。“札幌らーめん”の名店の東京第一号店だそうで。小麦のおいしさが味わえる麺でした。それはさておき。この夜以来、「弦楽セレナーデ」が鳴ると、パブロフの犬のように芸術監督の美について深く考えることになった。それはときに思いもかけぬ場所で響いた。お正月三が日、播州の夫の実家を訪ね、帰りに新幹線の駅まで送ってくれた義理の父の車のラジオから聴こえてきたこともある。
 そして、この体験があってから、Kバレエの暮れの恒例の「くるみ割り人形」を観に行ったら、…芸術監督の魂に一層深くふれる思いをしたのだった。芸術監督の「くるみ割り人形」では、それは激しく雪が降る。その中をダンサーたちが激しく踊る。…チャイコフスキー先生、ロシアの雪はどんな風に降るのかな? 俺の故郷の北海道ではこんな風に降るんだよ…と、芸術監督が作曲家の魂に問いかけているようなのである。芸術監督の作品には大自然への畏怖の念がしばしば美しく表現されているけれども、この場面もそうである。彼が少年の頃、冬ともなれば大雪に接し、…外に出て遊べないな、とか、止んだら雪で遊ぼう…などと思っていたことが感じ取れる。
 「くるみ割り人形」は、熊川少年のジャーニーの物語なのである。バレエに選ばれ、北海道から世界に渡り、そして、…日本バレエ界の救世主になれ…との言葉を胸に、美のために闘い続けている人間の。芸術監督は非常に品のいい人だから、彼が体験したであろう困難も、この作品において、人形の兵隊たちと戦いを繰り広げるねずみたちに品よく投影されている。
「…だって、俺が闘い続けなければ、愛する日本の観客に、俺が思う美しいバレエを見せられないだろ…」
 クララとくるみ割り人形率いる兵隊たちは力を合わせて闘い、ねずみたちを蹴散らす。そして、激しく雪の舞う国を経て、人形の国へ。かけられていた呪いは解け、美が実現される。熊川少年は、実は人形の国からの使者であるドロッセルマイヤーによる、この呪いの物語を描く人形劇を観ていて一人エンジェルを目にし、ドロッセルマイヤーに見出される“クララ”でもある。そして“クララ”は、熊川“ドロッセルマイヤー”の“劇”にエンジェルを目にし、美に立ち上がる観客一人一人でもある。両者が力を合わせたときが最強である。

 ぽーんとジャンプして出てきた男性が「熊川哲也です〜」と名乗った瞬間、「何かむかつく」という不条理な理由で射殺されるシュールな笑いの舞台も観た。テネシー・ウィリアムズ作品のとあるキャラクターに擬せられたときは、実にキザながらも魅力的な人物だった。他の舞台作品に陰に陽に登場するとき、芸術監督の描写は何だかいつもキザである。
「言うこととか、確かにキザです! でも、それが似合ってるからいいんです!」
 昨年、体調を崩して劇場に行けなかったとき、舞台とはまったく関係ない場所で偶然知り合った芸術監督&Kバレエファンの言葉である。同感。
 でも、と思う。キザの向こうに、繊細で美しい魂が隠れているんだぞ、と。私なんかときどきがさつだから、傷つけたこともあるかもしれないな、と思う。もう二十年くらい前、テムズ川沿いの劇場の楽屋で取材した際の一言とか。敬愛する芸術家にたしなめられたこともある。「男は繊細なんだぞ。君があんな書き方したら、熊川くんだって創れるものも創れなくなっちゃうよ!」と。猛省。
 昨年、自分は芸術監督への期待水準が本当に高いんだと改めて思うことがあった。そして、それをいつも満たしてもらっていることも。でも、これでよしと満足してしまったら美の追求はそこで終わってしまうだろうし、舞台評論家がさらなる高みを期待しなかったら、それも存在意義のない話だと思うから。
 昨年10月に「カルメン」の舞台でホセを踊る芸術監督を観ていて、熊川哲也が創る美とは、自分の人生とはもはや切っても切り離せないものになっているのだと感じた。それは痛切な思いだった。…この人を取材して書いた記事がほめられた! この人のことをもっと書きたい! と、文章がただただ上手くなりたいと思っていた新米記者時代から、ずっと。元祖インスピレーション。
 本日3月5日は芸術監督の誕生日である。心から、おめでとう! そして、同い年のよしみで一言。
 老け込まないでね♡。
 来週のKバレエカンパニー「ドン・キホーテ」の公演が楽しみ!
 初日(19時、オーチャードホール)観劇。オデット/オディール=中村祥子、ジークフリード=遅沢佑介。
 第一幕。ぴんと張った上背、遅沢の王子ぶりが素晴らしい。第二幕。グラン・アダージョ。オデットをジークフリードが後ろから抱きかかえる、そのとき、…人間の男が本当に白鳥を抱きかかえて慈しんでいるようにしか見えない瞬間が何度も現前した。そして白鳥は女性の姿へと戻る。その艶めかしさ。愛と美とエロス、三位一体の慄然。
 第三幕。古典版の“黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ”で涙を流したことは今までになかったように思う。それだけ、今回、全編にわたって、このチャイコフスキーの音楽の美しさをそのままに、バレエ芸術を通して観客に伝えようとする熊川の心意気が美しいのである…。グラン・パ・ド・ドゥへの導入ともなる「スペイン」を、熊川版は、目の前にオデットそっくりながらもどこか異なる印象を与える女性が現れ翻弄される王子の心理描写としても用いているのが際立った演出。今回観ていて、…この幕を“仮面”理論で考えてみても面白いかもしれないという発想が浮かんだ。演じられるもの。その“虚像”の向こうにひそむ実像。
 第四幕。…私は今年4月、四代目市川猿之助と壮一帆という二人の芸術家の舞台に、…人が何かを愛して必死に闘っている姿がこの世でもっとも美しく尊い姿なのだと教えられた。芸術家・熊川哲也の演出は、この思いをさらに敷衍する。心から愛し合っている二人の人間が、その愛を何とか成就させようと共に必死に闘っている、その姿もまた、この上もなく美しく尊いものなのだと。
 …パ・ド・ドゥなのにパ・ド・トロワを踊っているような、そんな不思議な舞台。
 呼吸困難になるかと思うほど嗚咽しすぎたので、今宵はこれにて。
 Kバレエカンパニー「カルメン」(15時の部、オーチャードホール)にて、芸術監督と同じ時代に生き、その踊りを観る喜びをしみじみかみしめ。舞台に立てないということが、舞台に生き生きと息づくその美しい心を傷つけてはいまいかということを、自分は一番恐れていたのだ…と。昨年の初演より、「カルメン」の舞台も、芸術監督演じるドン・ホセも一層心に深く沁み。演じる側が、今まで以上に心を客席側に委ねていたからではないかと思うけれども。
 本日夜はシアターコクーンにて赤堀雅秋作・演出「大逆走」の初日の幕も開き、こちらも素晴らしかった! のですが、あひるは今週昼夜昼夜…限界まで活動したため今宵はこれにて。